【海外で働く④】なぜ、私はアメリカにいて、製薬会社で働いているのでしょうか?——中鉢知子さんの場合
合意に基づいた試験を終わらせ、申請書類を書き、EMAで承認されて、それから会社の薬事、パテントオフィスの人たちがヨーロッパ各国の当局にパテント延長販売などの書類を提出し、パテントが切れる前に審査が終了していなければなりません。逆算すると、とても時間が足りませんでした。
そしてその試験ですが、0歳から2歳までを何例、2歳から5歳までを何例、6歳から12歳までを何例、12歳から17歳までを何例最低組み込まないといけないといった縛りが付いているのです。小児緑内障、それも本当に若い症例というのは先進国では存在しません。なぜなら先天性緑内障のため、生まれて診断されるとすぐ手術を受けるのです。
ということで、この試験はグローバル試験、それも発展途上国を何か国も含む試験となりました。症例の組み込みが進まず、私の世界行脚が続きました。医師と医師同士で話をして、症例組み込みを速めてもらおうというのです。
私は一人で東ヨーロッパを含むヨーロッパ各国、インド、フィリピンなどあちこちに飛び回りました。現地ではたいていは現地法人のオペレーションの人が助けてくれるのですが、フランスではその助けてくれるはずの人がダブルブッキング。パリではないどこかのフランスの街でしたがでフランス語のさっぱり話せない私は、とりあえずタクシーに乗って病院についたものの、どこの部屋に行ったらいいのかわからずうろうろ。看護師さんは助けてくれるのですが、向こうは英語が話せず、私が行き先の先生の部屋を伝えると、ぽんと背中を押して、エレベーターに放り込み、ボタンを押してくれました。
それでも何とか部屋にたどり着き先生と話をし、症例組み入れの約束を取り付け、さて、ホテルに帰る段になりました。先生は、「ほら、あそこにモノレールが見えるだろう?あれに乗ったらすぐなんだよ。玄関まで送ってあげるから。」と言われて、送り出してくれました。しかし、まったく土地勘のないうえ、すべての表記はフランス語、どうやって切符を買うものやら分からず、買っても、どちらの方向のモノレールに乗るのかもわからず、苦労しました。先生の(余計な)親切がなければ、タクシーに乗ったものを、モノレールでホテルに帰ると、もうくたくたでした。今ならスマートフォンでなんとか調べることもできますが、2007年は確かまだ、ブラックベリーを使っていた時代でした。観光旅行ならこういったハプニングも楽しむ余裕もありますが、仕事となると恐ろしくストレスが溜まります。
そして、次の日は、フランスからイギリスへ列車に乗って移動しました。スーツケースを引きずり、持ち上げ、ロンドンの地下鉄を右往左往し、ホテルにやっと到着しました。次の日の朝、イギリスの現地法人の人が来てくれた時は、もう本当に安どしました。この時以来、私は2週間でも、3週間でも、スーツケースは機内持ち込み可のサイズで動くことにしています。
この小児緑内障、第3相試験以外にもPK試験をしなければなりませんでしたが、PK試験をある指定年齢グループでしてから、第3相試験のその指定グループの組み入れを開始するという、安全性を担保するための手の込んだコンビネーションでした。つまり、12歳以上のPKが終わってから、12歳以上の第3相試験の患者を組み入れ、それと並行して、6歳から11歳までのPKをするというstaggered approachを要求されていました。
その最終段階は2歳未満の小児。これは南アフリカでのPK試験となりました。生まれて数週間からたぶん3か月ぐらいの赤ちゃんの緑内障手術を専門としている病院で手術の準備と同時に行いました。PK試験ではいくつかのタイムポイントで血液採取をし、そこで薬剤濃度を測定し、その薬剤のPKパターンが成人と似ているということを示さなければならなかったです。このPK試験の患者リクルートに時間がかかってしまうことになり、第3相試験側の患者さんはそれこそ列を作って待ってくれていたのです。
このPKのデータを臨床薬理の専門家が確認し、私が臨床的安全性を確認して、すぐに電話を入れて、列を作って待っていてくれた患者さんの治療が開始されました。毎日がプレッシャーの連続でした。
PK試験と第3相試験の組み入れが終わると、Last Patient Last Visitまで残り12週間です。
・・・・・続きは順次アップデートされます。またお越しください・・・・・