【海外で働く③】なぜ、私はアメリカにいて、製薬会社で働いているのでしょうか?——中鉢知子さんの場合

そしてアカデミアでは聞いたこともない180度評価、360度評価。周りの人からの辛口評価に落ち込みました。でも同時に励ましの言葉もあって謙虚に頑張ろうと気持ちを新たにしました。海外からのメールや電話会議が度々あり、エキサイティングでした。北米での生活が5年あったせいか、あるいは私のもともとの性格なのか、グローバルチームとのコミュニケーションをとって交渉していくプロセスがとても刺激的で面白かったです。

コスト削減の中、私とコアのプロジェクトチームの人でアメリカに出張に行って日本の立場を説明したり、グローバルチームの人が日本に来て一緒にPMDAに相談に行ったり、そんな日々が3,4年続き私の新たな夢はグローバルチームのリーダーになって、グローバル試験をデザイン、実行指揮することにターゲットが定まりました。

もともといつかはもう一度アメリカに行って仕事をしたいと思っていたので、グローバルチームのリーダーになるためにはどうしたらいいかいろいろ考えました。私は皮膚科医だし、もし皮膚科領域の治験をするのならばリーダーになれるかもしれないと思っていたところ、アメリカでは皮膚科領域のプロジェクトが始まっていました。

そこで上司に交渉してミシガン州のアナーバーに出張の途中よらせてもらえるようにしました。先方では面接をしてくれて気に入ってもらえたようなのですが、日本側もいろいろ調整が必要だったようで、1年ほどはいい返事がもらえませんでした。それでもことあるごとに上司にお願いしていると、眼科領域で日本から出向者が欲しいという話があり、半年眼科半年皮膚科で出向させてもらえることになりました。眼科領域の開発チームはサンディエゴにありましたので、2006年10月にサンディエゴに向かいました。

そこでクリニカルリードという形で眼科のプロジェクトに携わることになりました。私はやる気満々だったのですが、出向というのはどうもサバティカル(長期有給休暇)と同じように受け止められていて、あまり仕事を回してくれませんでした。もっとあちこち遊びに行ったらいいのにという感じでした。そして半年ほどたつとびっくりするニュースがやってきました。次に行くはずの皮膚科領域のチームがあるアナーバーのサイトが閉鎖されるということに。そして皮膚科領域も閉じられるとのこと。さあどうしようと思って日本の上司と話をしたり、アメリカの眼科チームのトップと話をしたりしているうちに、眼科領域でクリニカルリードが必要だからアメリカに転籍しないかということになりました。

皮膚科ではないけれどもアメリカでクリニカルリードになれるというのでやってみようと意を決し、日本の上司に「あのー申し訳ないんですが、アメリカに移りたいんです」と遠慮がちに言うと、「いいじゃない、がんばれよ!」と言ってもらって送り出してもらえました。さらにアメリカの方では、何はなくてもグリーンカードということで、すぐにいろいろ手続きを始めてもらえました。本当にいろいろとサポートをしてくれた日米の上司の方々及び人事の方々には今も感謝しています。得た教訓は、夢をかなえるために努力を惜しまず、遠慮せずにサポートをお願いするということです。普通、人は頑張っている人を応援したくなるものです。

眼科のクリニカルリードになってした仕事で最も印象に残っているのは小児緑内障のグローバル試験です。プロスタグランジンの緑内障点眼薬で、もう何年も市場で売られている大変人気のある薬でした。成人の適応症はすでに承認されていましたが、小児の適応症は持っていなかったのです。それだけの人気商品でしたので小児にもオフラベル(適応外)で数多く使われていました。

しかし、パテントが切れる前に小児の適応症をとろうと会社が決めたのです。小児の適応症が取れると6か月パテントが伸びるのです。ちょうど、ヨーロッパではPediatric Investigation Plan (PIP)が義務化され、アメリカではPediatric Study Plan (PSP) が始まろうとしていたところでした。小児のオフラベル使用が問題になっていたのです。

6か月なんか大したことないじゃないかと個人的には思ったのですが、人気商品だと6か月のパテント延長で、売上が何億円も稼げるということで、1年半か2年以内に試験をやって申請しろという至上命令でした。FDAとの交渉はすでに決裂していましたが、EMAとはまだ交渉の余地がありました。PIPの交渉にすでに1年近くたっていましたが、何とか合意にこぎつけ、合意に基づいた治験を行いました。第3相試験とPK試験をすることになったのです。