【海外で働く②】なぜ、私はアメリカにいて、製薬会社で働いているのでしょうか?——中鉢知子さんの場合
しかし、いつまでもポスドクをやっているわけにもいきません。何とかまともなポジションをとって生活も安定させなければということで、カナダとアメリカでいろいろなポジションに応募し、いくつかオファーをもらいました。ただ、医師としての資格を持っているのに、Research Assistant Professorというのではかなりお給料も控えめでしたし、アメリカではグリーンカードがないとそれなりのグラントにも応募できないということが分かりました。
とにかく教訓はアメリカで仕事をするなら、多少お金がかかっても、ビザのことはできるだけ早く手を打つべきだということです。そうこうしているうちにアメリカで基礎研究者としてやっていくほど自分には才能がなさそうだと思い始めました。ある時日本のリクルーターから連絡が来て、日本にある外資系製薬会社が、医師で博士号を持っていて英語の話せる人を探しているといわれました。話を聞いてみると面白そうなので、ダメもとで面接を受けてみることにしました。
治験も上の先生がやっているのを少しお手伝いしたことしかなかったのであまり知識がありませんでした。しかし、チームワークが好きで、論文を書くのが好き、新しいことを学ぶのが好きとかいうのが評価されたのでしょうか、採用となりました。私も面接中「女性だから」というような言葉を聞くことが全くなく、いい印象を持ちました。そしてカナダから日本に戻ることになったのです。2002年5月から私の製薬企業での医薬品開発キャリアがスタートしました。
さて、製薬企業で働き始めると戸惑うことの連続です。まず、会社の携帯電話とコンピューターが支給されました。会社の人全員が同じコンピューターを持って、今でいうクラウドのようなところで様々な文書をシェアしていました。プロジェクトチームはいろいろな部署からなるマトリックスチーム。いったいどの人がどの部署から来ていて何の仕事をしているのかよくわかりませんでした。メールの書き方もどの人がtoでどの人をc.cにすべきかまずコミュニケーションの勉強でした。
私はプロジェクトリーダーですので、だれだれさん何々をしてくださいと指示をするのですが、なんか的が外れていたりして、迷惑をかけていました。私にあてがわれたプロジェクトはグローバル試験に日本が初めて参加するというもの。統計の人が何人ぐらいの患者さんを組み込まないとプラセボと統計学的な差が出ないとかいろいろ試験のデザインを議論しました。
グローバル試験に組み込まれるが、日本の申請には最低300症例ぐらいが欲しいとか、様々な議論を社内でし、PMDAに交渉したりもしました。結局日本人症例でも用量反応性を示してほしいということで、でも、コスト削減すべきだと議論は発展し、これも日本では初めてのアジア試験をやることになりました。プロトコールを書いてくださいと言われてどうしていいかわからず、そんなこと言われたってやったことないし。。。。と上司に愚痴を言ってみたりして。でも、親切にチームの誰かが助けてくれて、ああやっぱり経験者はすごいなあと感激しました。何が何だかわからないうちに1年、2年はすぐに過ぎていきました。