【海外で働く①】なぜ、私はアメリカにいて、製薬会社で働いているのでしょうか?——中鉢知子さんの場合

子供のころから海外で働いてみたいと思っていました。外交官になりたいとか思ったこともあったように記憶していますが、高校の担任の先生に理系の方が向いているんじゃないと言われて、理系志望となりました。物理がさっぱりできず、生物と化学で受験できる理系を探すと医学部ということになりました。大阪大学医学部の学生の時は基礎医学が好きでした。卒業して皮膚科入局となりましたが、海外で行われる学会に出席するのを楽しみにしていました。

大学院では皮膚がんの研究をおこない、その研究テーマでボストン大学に留学することになり、とりあえず子供のころの夢がかないました。ボストン大学皮膚科の主任教授はその当時Barbara Gilchrestという女性で、マサチューセッツ工科大卒業後、ハーバード大学医学部卒業、研修、その後若くしてボストン大学医学部皮膚科の主任教授になり、数々のグラントをとってきて、アメリカ国内皮膚科では1,2を争う研究の盛んな教室を築き上げました。

それだけでなく、臨床に関しても紛争地域から著名な教授をアメリカに呼び寄せ臨床教育を充実、世界各地から医師を集めて皮膚臨床のマスタープログラムを始めたり、皮膚病理もインド人の教授を抜擢し、グローバルに教育プログラムを展開する才媛でした。彼女は私のあこがれで、今でも私のメンターでもあります。

2年半ボストンでポスドクをしましたが、本当にアメリカ生活を満喫しました。日本では大学院生の終わる前に渡米したので、何のポジションもなく、ただひたすらの貧乏生活でしたが、部屋をシェアしたり、ラボを抜け出してボストンシンフォニーの当日券を並んでとったりと楽しい思い出です。しかし、日本に帰るとなると、ポジションをもらってお給料をもらわないことにはもう生活が成り立たない状態になっていました。

研究は大好きになりましたので、どうしても大学で研究を続けたいと思っていましたが、母校の阪大皮膚科にはポジションがなく、他大学も聞いてみたのですが、医局運営のためか、他大学に行くことはできませんでした。アメリカに残ることをもっと早く決めていたらビザの変更などできたかもしれません。しかし、基本的にはJ-1ビザは交換研究者ビザですので、日本に帰らなくてはなりませんでした。

研究費を払って研究生となり、好きな研究も生活のためのアルバイトに追われて、さらに外来、病棟を受け持たなければならないと言われた時には、どうにも納得がいかず、大学から出て一般病院できちんと給料のもらえる仕事をさせてほしいと頼みました。ちょうど産休を取られる先生がおられたので1年間の契約で大阪厚生年金病院で働くことになりました。その1年の間に何とかまた研究ができるようにポスドクのポジションを探しました。

ちょうどカナダで皮膚がんの研究をしている皮膚病理医のVictor Tronがブリティッシュコロンビアからアルバータ大学に主任教授でうつることになり、ラボを立ち上げる必要があるので手伝わないかと言ってもらえて今度はカナダに行くことになりました。そこでは、テクニシャン、医学部の学生、研修医を指導しながら研究をすることができました。ラボのマネージメントを任せてもらえて、チームリーダーとして仕事をすることを学びました。