【インタビュー】玉田寛さん

インタビュアー

製薬企業に入られる前の玉田さんはどのような経験をされていたのでしょうか?

玉田寛さん

私は1993年に自治医科大学を卒業し、初期研修後7年程は僻地や地方都市の中核病院で一般内科医として勤務していました。今でいう総合診療に近いスタイルでしたが、へき地の診療所では小外科手術、小児科、地域保健も経験できて、どっぷりと臨床に従事した期間でした。自治医科大学の卒業生は、卒後に在学期間の1.5倍の期間を出身県の県庁職員の立場で僻地医療に従事する契約になっており、契約が切れる1年程前から次のキャリアの方向性を考え始めました。

インタビュアー

自治医科大学の卒業生はそういう契約だとは知りませんでした。その後はどうされたのですか?

玉田寛さん

私は学生の頃から基礎医学に興味があり、僻地医療の義務年限が明けた後は基礎研究をやってみたいと考えていたところ、大学の先輩の紹介で米国に研究留学する機会を頂き、義務年限終了後に過去の研究結果をまとめて、何とか学位を取得し渡米しました。
留学先のラボは日本人のPIが立ち上げたばかりの研究室で、PIと日本人ポスドク2名、PIの奥様がテクニシャンという小さなものでしたが、「幹細胞研究分野でパラダイムを根底から覆すような凄い研究をする!」というPIの物凄い熱量がビリビリと伝わる真剣勝負の場所でした。

インタビュアー

ハードなアジア人PIの研究室のイメージです。

玉田寛さん

アメリカの新米PIは大学に職を得ると数十万ドルのスタートアップ資金を提供され、ラボの設置、機械と試薬購入、ヒトの雇用を行いますが、大体3年から5年以内に外部の大型研究資金を獲得し経済的に自立する事が求められています。私がそのラボに着任したのは、正にPIがNIHの大型研究資金獲得に向けてグラント申請準備をしている最中で、物凄い緊張感がありました。PIも必死なので、ラボメンバーに対して叱咤激励しつつ、グラントを書き、大学の仕事も行い、PIは多分週80時間くらい働いていた様に記憶しています。PIがランチを立ちながら10分くらいで済ましていたことを今でも覚えています。

インタビュアー

アメリカで日本人がラボを立ち上げるというのは大変なことです。私も挫折してしまいました。

玉田寛さん

アメリカでの研究生活は私の人生で大きな変曲点となりました。3年間研究してそれなりの雑誌に論文も出て、周囲からも「玉田君はプロの研究者でもやっていけるんじゃないの」と言ってもらいましたが、優秀でハードワークな研究者達が結構な割合で大型予算を獲得できずに大学を去るのを目の当たりにするにつれて、自分は到底そのような環境では生き残ることが出来ないと言う妙な確信を得て、日本での次の身の振り方を考える事となりました。

インタビュアー

私も自分にはその方面のクリエイティビティはなさそうだと確信し、グラント獲得に必要なプロセスとサバイバルのハードルの高さにあきらめてしまいました。

玉田寛さん

日本に帰る事を考えた時に、いくつかのオプションをイメージしていましたが、製薬企業への転職は想像もしていませんでした。当時は基礎研究を日本で続ける事も考えており、いろいろ探したのですがこれと言った機会を探し当てる事も出来ず、医師の転職を扱う人材会社に登録してみました。今思えば人材会社の案件の99%がクリニックや病院への就職斡旋で、ごくたまに研究機関のポジション募集と言う状況で、あまり筋の良いアプローチではなかったのですが、これが偶然製薬企業に転職する機会となりました。

インタビュアー

偶然というか、私もそのルートでした。

玉田寛さん

日本に帰国して米国系製薬企業の日本法人でメディカルアフェアーズの仕事を始めたのですが、当時のメディカルアフェアーズはまだ初期の段階で、海外のモデルを外資系企業が日本に持ち込んでまだ数年と言う状況でした。日本の製薬企業では学術と呼ばれる営業サポート機能がありましたが、製品のライフサイクルマネジメントを科学的に行う部署はまだ存在せず、メディカルアフェアーズの仕事を徐々に作り上げていく様な感覚がありました。

インタビュアー

なるほど。

玉田寛さん

アカデミアから企業への転職は非常に学びが大きく、自分が今まで如何に世間知らずであったかを認識しました。製薬企業といえばMRしか知らなかった自分にとって、製薬ビジネスが高度に規制でコントロールされた、サイエンスに基づく複雑で巨大な産業である事を学び、製薬ビジネスに長く携わっていきたいと感じだした頃に一つの転機が訪れました。

インタビュアー

一般の医師と製薬会社の接点といえば普通はMRですよね。

玉田寛さん

私は当時循環器系薬剤のメディカルアフェアーズ業務を行っていたのですが、次世代大型製品の期待が高かった某薬剤が第3相試験の途中でプラセボに比較して総死亡が多くなる事が判明し、開発プログラムが中止されるどころか、会社として循環器領域の研究自体から撤退する判断が成されたのです。これを契機として私は転職活動を行い、同じく米国系製薬企業で活発な循環器領域の研究をしている会社に移籍しました。

インタビュアー

製品になるのは狭き門です。

玉田寛さん

移籍してすぐに、同じ米国系企業でもこれほどまでに企業文化が違うのかという点に良い意味で衝撃を得ました。最初の会社は合理的でアグレッシブなビジネス判断を行う傾向が顕著でしたが、二社目はサイエンスに対するこだわりが強く、科学的な判断を第一に尊重する文化がありました。二社目ではアジア太平洋地域の循環器メディカル領域を統括する経験に加え薬剤アドヒアランス改善アプリの事業開発を行い、自分はもっとビジネス領域の経験を積みたいと思っている矢先に二度目の転職の機会が訪れました。

インタビュアー

企業のカルチャーというのは本当にそれぞれ異なりますよね。

玉田寛さん

メディカルアフェアーズ部門長として入社した三社目も米国系製薬企業でしたが、前二社に比較するとサイズも小さく、Biopharma cultureを掲げて物凄いスピード感で物事が決まっていく様子にエキサイトしました。入社時は新規経口抗凝固剤や、がん免疫療法の上市が控えており、人材の大量採用、業務プロセス整備、新たな組織文化作りに加え複数のアライアンスマネジメントを経験することが出来ました。入社2年後にはグローバルの組織改編によってメディカルアフェアーズと開発部門が統合される事となり、メディカル・開発部門長を拝命しました。メディカルアフェアーズが長かった私にとって、開発部門のマネジメントはまた新たな学びでしたが、優秀なチームメンバーとグローバルからのサポートもあって統合業務も無事に完了し、2017年末頃から次のキャリアを考え始めました。

インタビュアー

様々な部門を経験できるのも製薬企業ならではですね。

玉田寛さん

私は製薬企業の業務の中でもビジネス面への関心が強く、かねてからハンズオンのビジネス経験を積みたいと思っていました。そのような折にグローバルオンコロジーマーケティングのポジションを打診され2018年初頭に人生二回目の米国赴任となりました。私がアサインされたポジションはオンコロジー早期開発品のマーケティングでしたが、仕事内容は開発にかなり近く、どこにUnmet medical needsがあり、標準治療が急激に変化する中で、どうすればなるべく早く結果が出て、しかもより優れた製品プロファイルを有限のリソースの中で実現できるかの戦略作りがミッションでした。米国系製薬企業に10年以上在籍し、良く知ったメンバーとの仕事だったので、スムーズにいくかと想像していたのですが、やはり最初は大変でした。

インタビュアー

色々なチャレンジがありましたか?

玉田寛さん

はい。会議では優秀でプレゼンテーション能力に優れた同僚がかなりの早口で丁々発止のやり取りをし、お互いの発現を途中で遮る事もしばしば、マーケティングの基本を部下の皆さんに教えてもらいつつ、優秀なチームメンバーに恵まれ、仕事は順調に進んでいましたが、製薬マーケティングのプロとして10年から20年の経験を有する優秀な同僚との来たるべき競争には勝てないだろう言う、これまた奇妙な確信を得て、本来の専門分野である循環器でGlobal Medicalに戻ってきました。やはり得意分野は仕事がやりやすいですね。

インタビュアー

アメリカ人は子供のころからプレゼンしたり、交渉したりになれていて、それが彼らのキャリアデベロップメントに大きなインパクトを与えるという事をよく知っているように思います。

玉田寛さん

現在は開発中の循環器製品の第3相試験に向けてUnmet Medical Needsを同定し、変化しつつある標準治療を見据えつつ試験デザインに対してインプットを行い、ライフサイクルマネジメントの計画を策定しています。早期開発品マーケティングで得た経験と社内でのネットワークが思いのほか役に立っており、ユニークな経験をすることがユニークなアウトプットに繋がっていくと言う感覚を強めています。

インタビュアー

今後につながる確かな手ごたえですね。それでは若い医師の方々に一言。

玉田寛さん

基礎研究でアメリカに初めて留学した時もそうでしたが、ストレッチされた経験をすることで自分の得手不得手が分かり、将来のキャリアの展望がかえって描きやすくなると感じています。
若い医師の方にお伝えしたい事は、自分の得手不得手を早めに知るために様々な経験を若い時に「きちんと」積む事です。例えば基礎研究に「十分な時間」を割ける環境に3年程身を置くと自分が基礎研究に本当に向いているかどうかが分かるでしょう。臨床であってもしっかりした指導医の元で相当の症例数を経験できる環境に数年身を置くと、自分が本当に臨床医に向いているかどうかが分かるでしょう。さらに「自分にこれは向いていない」と思ったら思い切って方向転換する勇気を持つ事です。私の尊敬する先輩の言葉を借りると「一度きちんと終わらせる事が重要」なのです。自分があまり知らない分野に足を踏み出すのは結構怖い(しかも最初はいろいろと恥もかく)のですが、きちんとした経験を蓄積しておくことで、将来の不確実性に対する耐性が醸成されると感じています。

インタビュアー

若い方にはよい指針になるお言葉ですね。今日はありがとうございました。