【インタビュー】村井政子さん

インタビュアー

アメリカにポスドクで来る医師の方は2,3年して帰国される場合が多いのですが、最近こちらのDDCPのインタビューを読んでくださる方から、そのままアメリカに残って製薬企業に就職された方のインタビューを載せてほしいという要望が出てきました。そこで村井さんのお話をお聞きしたいと思いました。

村井政子さん

私のポスドクとしての渡米の動機は2つありました。一つ目は、女性であることを意識せず自分の仕事の価値を認めてもらえる環境模索でした。日本では当時は医師であっても女性だったら、30過ぎるころから結婚しないの?と聞かれるような環境だったのです。2つ目はトランスレーショナルリサーチを早期に臨床応用できる環境模索でした。私は粘膜免疫のトランスレーショナルリサーチに魅力を感じており、アメリカは日本よりも活発にトランスレーショナルリサーチが臨床応用されていました。上記の2つの目的を果たせる場所をアメリカでの留学先として探し、夏休みを利用して興味のある研究室に直接訪問し、インタビューをしました。これらの目的から私の場合は日本での所属から外れることにしました。また英語が上手に喋れない、聞き取れない自分がアメリカでどこまでできるかわからなかったので、もしもの時は2、3年で日本に帰国し消化器内科医として働くつもりでいました。

インタビュアー

背水の陣で留学されたのですね。

村井政子さん

研究でダメなら日本に帰って地元で何とかやっていこうとも思っていたのですが、アメリカでの研究内容が論文審査のある専門誌に採択され、それをもとにグラントを自分でとることができました。自分の研究グループを持ち、医学部生、ポスドク、テクニシャンとともにトランスレーショナルリサーチでマウスで出てきたデータを人で検証していく道筋を付けました。UCSDの消化器内科の大家である先生と共同研究にもこぎつけました。この研究を企業が買ってくれて薬になれば素晴らしいと思って頑張っていました。しかし、彼から患者10人程度のデータで何になるんだ?と問いかけられて、自分の力不足を感じました。今考えると企業との共同研究にもっと積極的な研究所に籍を変えるなど検討しておくべきだったのかと思ったりします。

インタビュアー

トランスレーショナルリサーチを続けていくことを目的に企業への転職を考え始めたのですか?

村井政子さん

はい。しかしアカデミアから企業に移るのは非常に難しいことでした。リクルーターさんはリンクトインを見てコンタクトしてきても、企業経験がないとなかなか私に価値を見出してくれないのです。それは研究してきた内容だとか私のポテンシャルとかそういうのとは別次元の問題でした。とにかく企業で働いたという経験が必要だと感じたわけです。

インタビュアー

アメリカでは製薬企業で働いている医師は多いですからね。経験者に限るとか平気で言ってきます。

村井政子さん

そうですよね。ではどこで経験を積むかと考えました。サンディエゴは製薬バイオスタートアップの会社がたくさんあります。そういった会社はフルタイムの医師を雇う体力がない。こちらはとにかく企業経験を得たいという目的があり、うまく両者のニーズがマッチしました。バーチャルカンパニーのコンサルタントをアカデミアでの研究者の立場と二足のわらじで始めました。日本の製薬会社のコンサルタントもやりました。ラホヤ免疫研究所の所長がこのような働き方を許可してくれたことに感謝しております。

インタビュアー

なるほど。それはいいところに目を付けましたね。そしてついに製薬企業でフルタイムのポジションをゲットしたのですね。

村井政子さん

最初はネスレの製薬部門の安全性医師でした。ここではセーフティーモニタリング、ファーマコビジュランスをしながら、開発についても学びました。将来的にはトランスレーショナルメディシンの分野をしたいと考えていましたが、ちょうど子供も小さかったので外に出ることの少ない安全性医師はよかったと思います。将来に備えてdue diligence(薬剤などの他社からの導入、他社への導出のための精査)や治験のメディカルモニターの経験も得ることができるように交渉しました。

インタビュアー

アメリカではどん欲に主張していくことが必要ですね。そして次の会社では念願のトランスレーショナルリサーチをすることになったわけですね。それではグリーンカードをどのように取られたのか教えてください。

村井政子さん

私はJ1ビザで来ていてちょうどH1ビザに切り替える手続きをしようとしていた時に、アメリカ人と結婚することになったのです。そこで結婚を通じてグリーンカードを取ることになりました。私の場合は結婚をきっかけにグリーンカードを得ましたが、良い仕事をアメリカで行えば、その仕事をもとにグリーンカードを取得することができることも学ぶことができました。

インタビュアー

先ほど企業医師に転身するために、企業のコンサルタントの仕事をしたといわれましたが、それでもアメリカで製薬企業医師として最初の一歩を踏み出すのは大変だと思いますが、ほかにどのようなことをされましたか?

村井政子さん

企業に行こうと決めてからは、仕事探しが仕事のようなものでした。15か月かかっています。応募した数は数え切れません。自分の希望としている仕事から、自分は興味はないけれど企業で働けるきっかけになるかもしれない仕事まで色々と応募しましたが、仕事探しはなかなか大変厳しいものでした。overqualifiedだと言われたりしたこともありました。リンクトインで自分のやりたい仕事をしている人にコンタクトを取ってインタビューをしたりもしました。製薬企業の人たちが集まっているグループに加入して、ネットワークを広げたり、メンタリングを受けたりもしました。そこで仕事を得られるわけではないですが、製薬企業での仕事について知ることができたことは良かったと思います。Job descriptionを100%満たすことは実際は求められておらず、3分の2でも満たしていれば応募するべきだという事も学びました。しかし特に女性の場合はすべてを満たしていないと応募できないと思っていることが多いことや、どのようにお給料の交渉をするかなども。

インタビュアー

大変でしたね。それでもアメリカでトランスレーショナルリサーチをする夢を追い続けたのですね。

村井政子さん

何がアメリカに居残る一番の動機かと考えると「自由」だと思います。そしてそれは企業でもアカデミアでもどちらでも言えると思います。これを大々的に言って若い人が日本離れしてしまうと困りますが、自分の目標に貪欲になれるのは自由があるアメリカという土俵があってかなと感じます。私のキャリアの第1章は医者、第2章は研究者、第3章は安全性医師から始まった製薬企業医師のキャリアです。今は第4章をどういう風に形作っていこうかと考えています。

インタビュアー

今日は元気の出るいい話をありがとうございました。きっとアメリカに残って研究をやり遂げたいという人の刺激になると思います。